幕末の将軍・将軍後見職上洛
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 15:14 UTC 版)
「佐屋街道」の記事における「幕末の将軍・将軍後見職上洛」の解説
文久2年(1862年)・3年(1863年)、14代将軍徳川家茂、一橋(徳川)慶喜の上京では、佐屋路を経て上洛している。熱田にて宿泊し、佐屋で休憩、桑名で宿泊している。幕末にはペリー来航により開国と攘夷が対立し、政情は公武合体により政局の安定が図られた。その後、孝明天皇からの攘夷の勅命を受けた将軍家茂は回答することを約束した。しかし上洛は沿道諸藩の負担が大きいことから対立意見が出ていたが、朝幕関係を重視し、将軍の上洛が決定した。将軍上洛に伴い草鞋・沓の調達が命じられ、佐屋路、佐屋宿・神守宿は、屏風・火・煙草盆・膳・椀・茶呑茶碗・飲次・湯次・通い盆・夜具等の繰込が指示された。繰込の割当は石高などに応じて決められた。
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