常盤姫伝説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/09 14:00 UTC 版)
この神社には、相殿として若宮八幡、境内社の中に厳島神社が存在している。2社の由来について、次のような話が伝わっている。 世田谷城の領主、吉良頼康には常盤という名の側室がいた。常盤は美しいだけではなく心優しく風流を解したので、頼康の寵愛を一身に集めていた。頼康に仕えていた他の側室はこれを妬み、常盤の不義を口々に言い立てた。最初はその話を信じなかった頼康も度重なる讒言に疑念を深め、常盤を遠ざけるようになった。 常盤は命の危険を感じて世田谷城を逃れたが、この付近で自刃したとも追っ手に斬られたともいう。そのとき常盤は懐妊していたが、男児を産み落とした。後に胞衣を清水で洗うと、吉良の五七の桐の紋が現れた。頼康はそれによって常盤の無実を知り、讒言を述べた12人の側室を死罪に処した。 頼康は常盤と男児を深く悼み、男児を「若宮八幡」として駒留八幡の相殿神として祀った。常盤の霊は弁財天として祀られた。第2次世界大戦の前は境内の池の中島にあったが、後に池は埋め立てられている。 常盤姫の実在は疑われているものの、伝説には実在の地名や寺社が多く出てくるため、真実味をもって受け入れられているという。常盤の墓所といわれるのが常盤塚(上馬五丁目30番19号に現存)で、伝承文学『名残常盤記』の関連史跡として保存され、1983年(昭和58年)11月12日に世田谷区の指定史跡となった。
※この「常盤姫伝説」の解説は、「駒留八幡神社」の解説の一部です。
「常盤姫伝説」を含む「駒留八幡神社」の記事については、「駒留八幡神社」の概要を参照ください。
- 常盤姫伝説のページへのリンク