帝辛の治世
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/28 00:33 UTC 版)
詳細は「帝辛」を参照 帝辛は聡明であったが、妲己と出会って以降、悪政を敷いたとされる。また、酒を注いだ池に肉を吊るし、そこに裸の男女を配置したり(酒池肉林)、油を塗った丸太を下から火で炙り、罪人を渡らせるという刑罰を妲己とともに楽しんだり(炮烙)したとされる。帝辛の様々な悪行に対し、叔父にあたる箕子・比干らは諌めたが(箕子の憂い)、いずれも退け、比干は殺された後に胸を切り開かれた。また、箕子は狂人の真似をして難を逃れた。 さらに、諫大夫なのに諫言をしない費仲や尤渾らを重用し、姫昌とともに三公の地位にあった九侯・鄂侯を正当な理由なく残虐に処刑し、姫昌の長男であった伯邑考を釜茹でにし、その死肉を入れた羹(汁物)を姫昌に食べさせ、そのことを明かしたともされる。 周代(春秋時代)に生きた孔子は、帝辛の治世は言われているほどのものではなかったという見解を示した。殷墟などで見つかっている甲骨文からは、人身御供の習慣を禁止したことが分かっている。また、酒池肉林とは人身御供に代わる神降ろしの儀式だったのではないか、重税を課して首都の朝歌にあった高塔・鹿台を宝物で一杯にしたとされるのは、通貨を発行しようとしていたのではないか、という説もある。東夷を討ったとあるが、このことが疲弊した殷を西方の周が背後から奇襲する機会を与えたともされる。また、周の領域においては、東方の蛮夷と連携を試みた甲骨文が出土している。
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