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川原凡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/10 23:53 UTC 版)

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川原 凡(かわはら の おおし、生没年不詳)は、奈良時代人物[1]のち蔵人、[2]官位従五位下紫微大疏

出自

河原(川原)の氏の名称は、河内国丹比郡丹比村大字河原城(現在の大阪府羽曳野市河原城)の地名に基づくものと思われ、『新撰姓氏録』「河内国諸蕃」によると、「河原連」は「広階連同祖」とあり、同じく「河内国諸蕃」には「河原蔵人」は「上村主同祖」とあり、ともに、「陳思王植之後也」となっている。神亀2年(725年)、河内国丹比郡の人である河原椋人(かわちのくらひと)子虫ら46人に川原史という氏姓を与えた、という記事がある[3]

経歴

天平10年(738年)頃の官人歴名に西史生、膳司大初位上と見える[1]

その後、光明皇后に仕えたことが史料に散見している。天平17年(745年)4月、従八位下中宮職少属として同職に署している。ただし「仮」とも記されている[4]、翌18年(746年)3月、従七位下皇后宮職少属として同職に署している[5][6][7]。同年閏9月、その宣により造東大寺司内裏に請経している[8]。同19年(747年)正月にも少属、従七位下とあり[9]、またその宣により造東大寺司は北大臣家に法華経を請経している[10]天平勝宝4年(752年)7月、紫微大疏従六位下として、紫微中台牒に署し[11]、同8歳(756年)4月も紫微大疏正六位上として、紫微中台牒に署している[12]。以上の史料には、最初の官人歴名を除くと、蔵人というを名乗っている。

天平勝宝9歳(757年聖武上皇の一周忌に、同9歳(757年)5月、食三田次益田縄手・大蔵家主・土師犬養土師弟勝上毛野真人とともに従五位下に昇叙している。この時は姓である[2]

官歴

注記のないものは『続日本紀』による

脚注

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  1. ^ a b 『大日本古文書』巻廿四 - 84頁・86頁
  2. ^ a b 『続日本紀』巻第二十、孝謙天皇 天平勝宝9歳5月20日条
  3. ^ 『続日本紀』巻第九、聖武天皇 神亀2年7月5日条
  4. ^ 『大日本古文書』巻二 - 399頁
  5. ^ 『寧楽遺文』下巻745頁
  6. ^ 『大日本古文書』巻九 - 139頁
  7. ^ 『東南院文書』巻三 - 121頁
  8. ^ 『大日本古文書』巻廿四 - 408頁
  9. ^ 『大日本古文書』巻九 - 330頁
  10. ^ 『大日本古文書』巻三 - 414頁
  11. ^ 『大日本古文書』巻三 - 585頁
  12. ^ 『大日本古文書』巻四 - 103頁、廿五 - 182頁

参考文献




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