峰打ちの実例
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/03 08:18 UTC 版)
『後愚昧記』弘和3年(1383年)条の記述として、三条厳子が出産後に宮中に戻ったところ、足利義満との密通を疑った後円融上皇に峰打ちで殴打され、実家三条家に戻る事件が起こる。厳子は三条家で治療を受けても翌日まで出血が止まらず、何度も気を失ったという。 『小田原北条記』巻四、天文23年(1554年)加島合戦3月3日のこととして、原美濃守平虎胤が近藤右馬丞を峰打ちで兜のしころを打ち、首の骨を二、三打ちしたため、右馬丞は馬から落ち、そこを友軍が叩き殺そうとしたが、美濃守が「甲州にいた折に目をかけていた者ゆえ、命は助けてほしい」と制止し、静かに味方の所へ引き連れたと記述されている(馬上での峰打ちの例)。 『本朝武芸小伝』の記述として、宮本武蔵が小笠原信濃守の邸に来た時(寛永期とした場合、17世紀前半)、包丁人を勤めていた男が賭け事(達人といえども騙し討ちをすれば打てるか打てないか)で木刀をもち、騙し討ちしようとしたところ、刀の小尻で胸板を突かれて倒れ、起き上がろうとしたところをむね打ちで右腕を4、5回打たれた。腕は治療しても治らず、包丁人はとうとう暇を遣わされたと記される。 『撃剣叢談』の記述として、安永年間(18世紀末)、神道無念流の戸ヶ崎熊太郎は四谷で有名な剣術の師との勝負に勝ち、帰る途中、余りの負け方に無念に思った剣術の師が走って追いかけ、斬りかかって来たため、熊太郎は振り返って斬り結び、最終的にむね打ちで倒し、そのまま帰ったと記述される。 安政元年(1854年)閏7月18日、午後2時頃、無宿人5人が和田村栄蔵宅へ強盗に入り、金を出さなかったため、斬り殺すと脅し、抜刀後、峰打ちや殴るなどの暴行事件を起こしたが、妻の悲鳴を聞いた村人が鐘を鳴らし、周辺村々から駆けつけた村人に取り押さえられている。
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