岩畔豪雄の参加と日米諒解案
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「日米交渉」の記事における「岩畔豪雄の参加と日米諒解案」の解説
井川・ドラウトの協定案作成に公的な性格を付与したのが岩畔豪雄であった。岩畔の米国派遣は、日米国交調整には支那事変に通じた人材が必要との野村大使の要請に陸軍が応えたものであるが、陸軍首脳がウォルシュ、ドラウトの工作について、岩畔に密命を与えていたかは不明である。しかし、アメリカ政府は陸軍の実力者の訪米とあって、何らかの密命を帯びているものと解し、岩畔に対し好意的な対応をとった。 3月20日に岩畔は井川と合流し、協定案を協議した。そして、31日にウォルシュ、ドラウトとの会談に入った岩畔は、米国側の目的が日本の三国同盟脱退なら交渉に入る可能性はないとの立場をとった。これに対し、両師からは、日本側が日米共同で英独戦争を調停するのを目的とするならば交渉を峻拒するという申し出があり、双方でこれらを承認したという。 岩畔とドラウトは4月2日から5日にかけて協定案の手直しを行い(通訳は井川が務めた)、できあがった草案は野村大使とウォーカー郵政長官に届けられた。ウォルシュ、ドラウト、岩畔、井川の活動は、国務省から "John Doe Associates"(正体不明の連中)と呼ばれたが、彼らこそが民間外交から日米交渉への推進役となるのであった。 この草案は日米双方が修正を加えたうえで、4月9日に一応の完成を見た。これを受け取ったハル国務長官は3日間にわたって国務省極東部と検討したが、「提案の大部分は血気の日本帝国主義者が望むようなものばかりであった」とその内容に失望したという。しかし、ハルは「一部には全然承諾できない点もあるけれども、そのまま受け入れることのできる点、また修正も加えて同意できる点もある」という結論を下し、これを交渉の糸口にすることとした。 その後、草案は双方の若干の修正を経て、4月16日に「日米諒解案」として決着した。内容的には岩畔の主張がかなり盛り込まれていたが、あくまで叩き台としての試案であり、「なんらの拘束力もない」と断り書きがあった。
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