岩屋古墳と方墳造営
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/01 23:24 UTC 版)
詳細は「龍角寺岩屋古墳」を参照 浅間山古墳の後に、龍角寺古墳群では方墳では日本第二位の墳丘規模を誇る岩屋古墳が造営された。日本最大の方墳は5世紀前半に造営されたと考えられる奈良県橿原市の桝山古墳であり、終末期古墳の時代では春日向山古墳(用明天皇陵)、山田高塚古墳(推古天皇陵)など、大王陵と考えられる方墳の規模を凌駕する大規模な古墳である。 当時、関東地方では大規模な方墳、円墳が各地で造営されていた。例えば方墳では千葉県山武市にある駄ノ塚古墳、群馬県前橋市にある愛宕山古墳が挙げられ、円墳としては栃木県壬生町の壬生車塚古墳、埼玉県行田市にある八幡山古墳などがあり、関東地方各地で大規模な方墳、円墳が造られていた中で、岩屋古墳も築造されていたことがわかる。6世紀末から7世紀にかけて、ヤマト王権は新しい時代に対応するため体制の変革を進めていく中で、広大な関東、東北方面を重視したと考えられており、その結果としてヤマト王権内での関東地方の地位が向上し、関東各地の首長が全国でも有数な規模の古墳を造営することが可能になったものと考えられている。もちろん岩屋古墳の規模は、古墳を造営した首長の勢力が強大であったことを示すことは明らかで、浅間山古墳の築造後、勢力をさらに強めていたことが想定される。 また岩屋古墳からの出土品はこれまで全くないため、石室の構造などから築造時期について推定するしかなく、7世紀前半に築造されたとの説と半ば頃との説がある。岩屋古墳の石室には、これまで龍角寺古墳群で用いられていた筑波山周辺で採掘される片岩ではなく、主に古墳群近くに分布する貝類の化石を含む砂岩を使用している。これは岩屋古墳の近くに分布する方墳でも使用されており、龍角寺古墳群では岩屋古墳の築造後、みそ岩屋古墳などの方墳の築造が続いたと考えられ、またこれまでよりも規模は縮小したものの、7世紀の方墳築造の時代も複数系列の首長が同時に古墳を造営していたと考えられている。しかし岩屋古墳のような大規模な古墳は造られなくなった。7世紀半ば以降、大規模な古墳が造られなくなる現象は古墳時代終末期、関東各地で大規模な方墳、円墳を造営した古墳群でも共通して見られる。そして龍角寺古墳群の造営は7世紀後半で終了したと考えられている。
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