小早川隆景の伊予上陸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 00:44 UTC 版)
「毛利氏の伊予出兵」の記事における「小早川隆景の伊予上陸」の解説
そして2月中旬に毛利元就と小早川隆景が詳細について検討した。結果、小早川隆景の伊予国上陸が決定し、隆景の本拠地新高山城は慌しい雰囲気に包まれた。隆景は3月1日の渡海を計画していたものの、吉田郡山の宍戸隆家、福原貞俊らの到着が遅れたため、最終的に3月中旬から下旬に毛利氏の軍勢が伊予国へ渡海している。また、それに先んじて小早川隆景が伊予国へ上陸。また、攻撃を受けている宇都宮氏側の大洲城・八幡山城救援のため、一条兼定も配下の土佐国人衆を率いて高島に進出。それに対して小早川軍は鳥坂城付近の防備を固め、一条軍の進出を防いだ。しかし、小早川隆景本人は、宇都宮軍・一条軍の動向を見定めるため、鳥坂峠への着陣を延期せざるをえなくなっていた。 毛利の援軍が続々と伊予国へ上陸するに及び、膠着状態にあった戦況は一気に動き出す。宇都宮氏の居城であった大洲周辺にも毛利軍が進出し、一条・宇都宮連合軍との戦闘に及んだ。一条・宇都宮連合軍は善戦したものの敗北を喫し、毛利軍は周辺地域を着々と制圧していった。 大洲城については、この時に落城したと思われるが、その詳細は定かではない。
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