小岩井農場を退職
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/10/08 15:15 UTC 版)
勝四郎は1916年(大正5年)から小岩井農場長となった戸田務との折り合いが悪く、戸田に疎んじられた。戸田は自身と同じ農科大学(現在の東京大学農学部)出身の石塚栄五郎を引立て、1926年(大正15年)から1927年(昭和2年)にかけてイギリスからの種牡馬導入の任務にあたらせ、さらに勝四郎より若いにもかかわらず勝四郎の上役に抜擢した。これらの処遇に不満を募らせた勝四郎は1930年(昭和5年)、小岩井農場を退職した。 小岩井農場を退職した勝四郎は、自ら牧場を運営して競走馬を生産することを夢見た。すでに馬産家として名声を得ていた勝四郎を雇おうとする牧場経営者は多かったが、しがらみに押される形で小林長兵衛が経営する東北牧場の場長に就任した。勝四郎は破産寸前の状態にあった東北牧場を徐々に立て直したが、太平洋戦争の激化によって競馬が衰退したことを受け1945年(昭和20年)に小林は牧場を売却。勝四郎は故郷に戻った。 太平洋戦争終戦後、勝四郎は牧場に雇用されたものの物価の高騰と農地改革の影響から競走馬の生産を行うことは困難な状況で、もっぱら牧場の管理にあたる日々を送った。1952年(昭和27年)に職を失い、岩手へ帰郷。間もなく勝四郎を師と仰いでいた馬喰の佐野玉吉に勧められ、佐野とともに北海道や東北の競走馬生産牧場を巡る旅に出た。勝四郎は各地でそれまでに培った知識と競走馬生産への情熱を披露し、優れた馬産家として再認識されるようになった。
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