尊王志士・義民として活動した大内氏
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「大内氏 (源氏)」の記事における「尊王志士・義民として活動した大内氏」の解説
同じく常陸国内で大内姓を有する志士・義民がいるので以下に列記する。但し、源姓とは限らないため、常陸国の大内氏として記す。 大内平次衛門久慈郡藤田村の郷士列横目役。諱は義質。号は恕庵。弘化元年(1844年)、江戸で藩主雪冤を運動して下獄する。南上中罹病し、11月25日死去。享年61。 大内彦蔵久慈郡留村の百姓。諱は為義。天狗党に加わり銚子から江戸佃島へ移され、慶応2年(1866年)6月7日、当地で獄死。享年25。靖国神社合祀。 大内内蔵之允多賀郡河原子村の百姓。天狗党の乱にて天狗方に加わるが、元治元年(1864年)暴徒に襲われて死去。享年22。靖国神社合祀。 大内誠造水戸藩士。与力。諱は盛言。安政5年から6年(1858年~1859年)にかけて起きた戊午の密勅に際して、勅錠返納反対運動に加わり捕らわれる。慶応2年(1866年)、獄死する。享年52。靖国神社合祀。 大内忠次大沼詰先手同心組。諱は克誠。天狗党に加わるが武蔵国岩槻藩に捕らわれ江戸佃島に移され、慶応2年(1866年)3月23日、獄死。享年47。靖国神社合祀。 大内平之衛門久慈郡藤田村の百姓。里正格組頭。安政6年(1859年)戊午の密勅の際、奉勅運動に関わり、元治元年、武蔵国川越にて拘禁される。慶応2年(1866年)7月6日、江戸佃島で獄死。享年51。靖国神社合祀。 大内善九郎久慈郡島村の百姓。天狗党に加わるも離脱。慶応2年(1866年)7月29日、新治郡小幡駅で病死する。享年40(38とも)。靖国神社合祀。 大内雄之介久慈郡島村の百姓。諱は義寿。組頭弥次郎(茨城郡川又村組頭とも)の長男。慶応元年(1865年)6月に水戸に送られ、同2年(1866年)2月15日、獄死(元年2月15日、敦賀にて斬首とも)。靖国神社合祀。 大内藤蔵郡方内元締役、文庫役。諱は信之。安政5年(1857年)江戸に直訴に及ばんとして道路疎通せず、憂憤のあまり井戸に身を投じて自殺する。自刃とも。享年44。靖国神社合祀。 大内悌之介藤蔵の次男。安政元年長岡駅屯集。万延元年(1860年)、徳川斉昭の死を悲しみ自殺未遂、数日後さらに割腹し死去する。享年18。靖国神社合祀。 大内吉五郎那珂郡湊村の郷士。諱は惟安。天狗党に加わる。元治元年(1864年)9月2日、那珂湊にて幕艦に近づこうとして捕らわれるも、病にて保釈される。慶応2年(1866年)9月14日死去。享年28。靖国神社合祀。
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