家斉出仕
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/16 22:17 UTC 版)
天保元年(1830年)改元翌日の12月11日に小納戸、16日布衣を命じられ、三次郎と改称し、徳川家斉の身辺雑務に従事した。天保2年(1831年)9月4日絵番となった。天保4年(1833年)頃二の丸松平斉善住居表居間北入側下方杉戸表に松竹梅、裏に亀に乗った福禄寿を描いた。 天保4年(1833年)3月28日養父興邦が死去し、6月3日家督を継ぎ、武蔵国都筑郡内550石を相続した。天保5年(1834年)2月10日木挽町の屋敷が類焼し、13日表六番丁通(千代田区三番町18,19番地)に転居した。 天保8年(1837年)4月2日家斉が家慶に将軍職を譲って西の丸に隠居すると、これに従い異動した。天保9年(1838年)11月29日表六番丁通の屋敷を小林甚五左衛門に売却し、小林鎌三郎から裏六番町通の屋敷(四番町5番地6と4の間、日本テレビ四番町ビル1号館東隣)を購入した。 天保10年(1839年)1月本丸能舞台奥表の小地取を制作した。天保11年(1840年)3月家斉が生けた白桃と紅牡丹を写生したが、桃は形が悪く、牡丹は色付けがないとして兄養信が描き直した。7月西の丸楓の間用の松竹梅三幅対を制作し、8月家斉描きかけの「牛久沼富士図」を下絵に認めた。
※この「家斉出仕」の解説は、「朝岡興禎」の解説の一部です。
「家斉出仕」を含む「朝岡興禎」の記事については、「朝岡興禎」の概要を参照ください。
- 家斉出仕のページへのリンク