家族および子孫
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/05 23:19 UTC 版)
「アブラム・ガンニバル」の記事における「家族および子孫」の解説
ガンニバルは二度結婚した。最初の妻はギリシャ人のエヴドキア・ディオペルという。2人は1731年に結婚し、一女をもうけた。不幸なことにエヴドキアは夫をひどく嫌っていた。彼女にとっては強いられた結婚だったためである。ガンニバルはエヴドキアが不貞をはたらいたことを知ると、妻を捕らえて監獄へ入れ、エヴドキアは11年も酷い環境に置かれた。その後、ガンニバルはクリスティナ・レジナ・シェベルクという別の女性と暮らし始めた。1736年、レヴァル(現、エストニアのタリン)にて、エヴドキアと正式に離婚しないまま、クリスティナと再婚し、同年にクリスティナとの最初の子供が生まれた。エヴドキアとの離婚は1753年まで成立せず、ガンニバルは彼女を修道院へ送り、彼女はそこで余生を送った。ガンニバルの二度目の結婚は合法とみなされなかった。二度目の妻クリスティナは、スカンジナヴィアとドイツの貴族の血を引いていた。2人は10人の子をもうけた。息子の一人であるオシップの娘ナデージダが、プーシキンの母である。 ガンニバルの長男イヴァンは海軍士官となり、1779年にウクライナのヘルソンを創建、帝政ロシアでの2番目の高位軍人となった。 ガンニバルの血を引く子孫が、現代のイギリス貴族にいる。ナデジダ・マウントバッテン(プーシキンの曾孫)の孫ジョージ・マウントバッテン (第4代ミルフォード=ヘイヴン侯爵)のほか、ナデジダ・マウントバッテンの姉であるアナスタシア・ド・トービーの子孫のヒュー・グローブナー (第7代ウェストミンスター公爵)とその母ナタリア・グローヴナー (ウェストミンスター公爵夫人)やアバコーン公爵夫人アレグザンドラや第17代ダルハウジー伯爵夫人マリリンなどである。[要出典]
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