宮中陰謀の渦の中で
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/28 08:48 UTC 版)
天宝4載(745年)、韋堅が水陸漕運使を外れ、刑部尚書に任じられた時にその後任となる。また、天宝5年(746年)には、李林甫の命令で韋堅と皇甫惟明の動向を探った上で通報しており、その際に王鉷や吉温とともに両人の取り調べにあたっている。楊慎矜はこの年、戸部侍郎にまで昇進したが、取り調べにおいて中立の立場を保とうとしたために李林甫や王鉷に憎まれたという。 楊慎矜は王鉷の父の王瑨とは従兄弟にあたり、王鉷の引き立てに力があったので王鉷に対して(官位ではなく)名で呼ぶなど、傲慢な振る舞いが多かった。また、李林甫も彼が玄宗に気に入られていたので警戒していたという。 天宝6載(747年)、楊慎矜は讖書(予言書)や法力を信じており、還俗僧の史敬忠とその関係で付き合っていたが、ある日、明珠という侍女を彼に贈った。史敬忠は明珠を楊貴妃の姉の秦国夫人(虢国夫人参照)に贈り、秦国夫人は宮中に明珠を連れて入った。玄宗は明珠から楊慎矜が術士とつきあっていることを聞き、不快に思った。 この件は楊釗に伝わり、楊釗は王鉷に告げ、王鉷と楊慎矜は仲違いをすることとなった。李林甫は王鉷を誘い、楊慎矜を陥れさせた。王鉷は「楊慎矜は祖業(隋王朝)を復興させようとしている、家に讖書もある」という流言を流した。 楊慎矜は捕らえられ、楊釗と盧鉉が取り調べを行い、盧鉉は楊慎矜の腹心、太府少卿の張瑄を拷問にかけたが、張瑄は何もしゃべらなかった。しかし、吉温が史敬忠に意のままに証言させることに成功した。また、盧鉉は讖書を袖にいれたまま、楊慎矜の自宅を調査して発見したように振る舞った。これを知った楊慎矜は嘆じて死を覚悟したという。楊慎矜と兄の少府少監の楊慎余・弟の洛陽令の楊慎名、全て自殺を命じられた。張瑄と史敬忠は杖罪に遭い、妻子は嶺南に流された。御史の顔真卿が洛陽への楊慎矜に死を命じる使者となった。同時に兄の楊慎余と弟の楊慎名も従容として自殺した。 楊慎矜兄弟は皆、仲が良く、容貌が優れて名声が高かったという。
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