宝五騒動とは? わかりやすく解説

宝五騒動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 21:27 UTC 版)

宝暦の飢饉」の記事における「宝五騒動」の解説

米価高騰への対策として、藩は宝暦5年に米を定価にする価格統制行なおうとしたが、城下町米屋富商従わず、米を隠匿して市場に出さなかった。宝暦5年9月から10月にかけて、米沢山形天童といった都市部米価高騰に不満を抱いた民衆による米騒動相次いで発生し米屋などが打ちこわされた。 同年9月城下南郊南原居住する下級藩士先頭に立ち、南部農村関村李山村の百姓700人から800人を集めて城下馬口労町、南町紺屋町酒屋富商の家に押し掛けた。そして、蔵の中見せないのは不届きだと乱暴し発見した米を粥にして振る舞うことを要求した。同9月10日置賜郡李山関山百姓500人から600人が米沢城下に繰り出して、蓄米の風聞があった馬口労酒屋勘兵衛宅に押し入り乱妨」した。藩は払米を渡すことを約束して引き取らせたが、13日には「諸士不肖ノ者」「軽き奉公人」の南原左衛門宅に押し込み土蔵打ち破った。この9月10日騒動南原下級藩士企んだ伝え史料もある。 藩ではこれに対して蔵米1人につき3升ずつ払い米とし、在方や町在の困窮者を対象に、米を一定値段売り払うこととした。しかしこの価格が高すぎるというので、再び百姓400人から500人が城下立町鍛冶町などの富商の家になだれ込み乱暴狼藉働いた。これらの暴徒町奉行配下使って鎮圧したが、藩は一度決めた米価撤回して自由販売戻し、米を原料とする酒や菓子類製造禁止した。そして家中藩士に藩財政逼迫凶作惨状訴えて家臣結束呼びかけたことで、領内平穏取り戻した翌年徒党首謀者である下級藩士4人が磔刑および斬罪となった。彼ら下級藩士たちは、藩の幕府の手普請などによる財政悪化影響により、宝暦4年分の扶持米をろくに支給されておらず、さらに翌5年凶作による米値上がり窮迫し徒党組んだであった

※この「宝五騒動」の解説は、「宝暦の飢饉」の解説の一部です。
「宝五騒動」を含む「宝暦の飢饉」の記事については、「宝暦の飢饉」の概要を参照ください。

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