宗家・大槻家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/25 10:07 UTC 版)
「西の頼、東の大槻」、江戸時代後期の儒学者松崎慊堂が広島の頼家と大槻家が並ぶ一族であると称えた。大槻家は葛西氏の一族の寺崎氏の末裔といわれ、戦国時代末期に(一関市金沢)飯倉に居館を作った泰常を初代とする。居館内に槻(けやき)の大木があったので大槻姓を名乗った。泰常は葛西氏再興を目指し兵を起こすが伊達政宗に敗れ戦死した。その子、常範は赤荻村に逃れ土着した。4代茂慶にとき磐井郡西岩井の大肝入となり中里村に移り住んだ。 玄梁の子孫は、学者の家系として知られ、仙台藩、一関藩の頭脳と言われた。子の玄沢の家は江戸に分家し江戸大槻家と呼ばれる。宗家9代清雄の子平泉は仙台に分家し、仙台大槻家と呼ばれる。
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