学術雑誌以前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/13 05:08 UTC 版)
学術雑誌が登場する前は、科学者たちは自分たちの発見を公表しても利益が少ないどころか、失うもののほうが大きかった。そこで、ガリレオ・ガリレイ 、 ケプラー 、ニュートン、ホイヘンス、フックなど多くの科学者は、まず自分たちの発見をアナグラムや暗号で符号化して記述したものを流布した 。そして、それらの発見から何か利益を得るものを開発できたときになってはじめて公表し、アナグラムや暗号をもとにそれは自分の発見だと主張した。 発見をすぐに公表しないというシステムのおかげで、重要な発見があったということが迅速に広まらず、だれがそれを発見したのかということを証明し難いという問題が生じていた。ニュートンとライプニッツは、双方が微積分を発明したと主張した。ニュートンは、1660年代から1670年台には微積分について書いたと主張したが、出版されたのは1963年だった。ライプニッツは、微積分についての論文を1684年に発表した。誰が発見者、発明者であるかという論争は、科学が閉ざされていたことに起因する。そしてこれは、優先権を主張し、利益を得たい科学者にとっても問題であった。 こういった優先権をめぐる論争は、科学者たちが、貴族からの資金援助を受けていたために起こったとも言える。科学者たちは、パトロンである貴族たちにとってすぐに役立つ発明をするか、あるいは彼らをただ楽しませることを求められていた。科学者は、貴族から活動資金を得ている芸術家や作家、建築家、哲学者たちと同じように、パトロンに名声をもたらしたのである。このため、科学者たちはパトロンを満足させなければならないというプレッシャーにさらされ、それ以外の人たちのために進んで科学をオープンにしようとはしなかった。
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