夫婦仲・家族に対して
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/25 15:44 UTC 版)
正室の玉子への愛情は深く、その父・明智光秀が本能寺の変を起こしたときも離縁せずに、幽閉して累の及ぶのを避けている。『フロイス日本史』によると島津攻めから帰還すると忠興は以前より残忍で悪辣な異教徒になったとされ、キリシタンの乳母のごく些細な過ちに対して、鼻と耳をそぎ、追い出したとされる。このような状況下で玉子は離婚を考え始める。朝鮮出兵中、忠興は玉子に何通もの手紙を書いているが、その内容は「秀吉の誘惑に乗らないように」というものだったという。 次男の興秋が大坂の陣で豊臣方に協力したため、戦後に忠興は自害させた。家康は伏見に潜伏している興秋を許そうとしたが、忠興は自らの意思で切腹を命じたとされる。 後継者の三男・忠利に対して「家中の者どもは将棋の駒と思え。将棋の駒にはそれぞれの働きがある。桂馬は頭に歩をつかれると、取ることも逃れることもできない駒だが、一枚隔て筋違飛びの働きをする。それは飛車も角も及ばぬものだ。人もこのように、一つの役目では不調法でも、他のことで役立つことがある。何もかも、ただ一人でできる者は百人いてもおらぬものだ。主君たる者は、このことを心得ておくべきである」と訓戒している(『名将言行録』)。
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