太政官指令文研究
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 14:21 UTC 版)
「竹島外一島」を参照 1877年の太政官指令により「竹島外一島之義本邦関係無之義ト可相心得事」と決定し、太政類典第二編には「日本海内竹島外一島ヲ版圖外ト定ム」としていることに関し、太政官指令文の外一島に関する内容を分析した。太政類典の中では「竹島」について現在の鬱陵島の地勢に似た内容が書かれ、「松島」については周囲が約30町(約3.3km)で竹や樹木が無く、魚と獣(アシカ)が取れるとしている。彼はこの点を上げ、この文書の中の「外一島」とは松島、すなわち現在の竹島(独島)であり、太政官が現在の竹島(独島)を朝鮮領土と認定したと主張する。さらに太政類典には、「松島」は「隠岐から竹島(鬱陵島)に行くとき、同一航路上にあり、隠岐から約80里(地上の距離では約320km、しかし、後述のように彼は当時海上の距離としての里は現在の海里に近かったとしている)の距離である」と記されている文章を指摘しながら、17世紀以来日本人たちは多くの文書で隠岐と松島の距離を約70-80里と記してきたという文献的事実と、里を海里と理解した場合、80里は約148kmとなり実際の隠岐〜竹島(独島)間の距離157kmに近くなることなどを指摘しながら、距離的にも「外一島(松島)」は現在の竹島(独島)であると主張する。(明治政府は1872年の時点で水路部により海上の1里を正確な1海里(=1.852km)とすることを決定しているが、保坂はその後の1877年のこの公的指令文の里も海里(浬)と解している。1905年1月28日に古来の松島を竹島と命名して島根県に編入することを決定した閣議決定文書には、隠岐と現在の竹島の距離を85浬<海里>と正確に書いている。)
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