天皇の遊猟地と貴族の山荘地
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 15:08 UTC 版)
「双ヶ丘」の記事における「天皇の遊猟地と貴族の山荘地」の解説
中世には天皇の遊猟地であり、高位貴族の山荘地でもあった。8世紀には大納言の清原夏野が双ヶ丘の南東部に山荘を営んだ。夏野は後に双岡大臣(ならびがおかのおとど)と呼ばれ、『類聚国史』によれば天長7年(830年)に淳和天皇が北野を行幸した折には夏野の山荘を訪れている。夏野の死後に山荘を寺に改めたものが法金剛院の前身とされる。承和15年(848年)には、「天皇遊猟の際に四望する地」として東墳(現在の五位山古墳)が従五位下を授けられている。9世紀には左大臣の源常も山荘を構え、『続日本後紀』によれば仁明天皇が常の山荘に行幸したという。菅原孝標女は『更級日記』に「南はならびの岡の松風、いと耳近う心細く聞こえて」と記し、双ヶ岡丘近の寂しさを描写している。兼好法師は『兼好法師家集』に「契り置く 花とならびの岡の辺に 哀れ幾世の 春をすぐさむ」という歌を残している。兼好は双ヶ丘西麓の庵で余生を過ごし、この地で『徒然草』を執筆したため、一の丘の東麓にある長泉寺には兼好の墓や歌碑が建てられているが、これは兼好を偲んで江戸時代に建てられた記念物であるとされる。17世紀後半に黒川道祐が書いた山城国の地誌『雍州府志』には「雙の岡」として登場する。
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