天保騒動の影響
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騒動の一部始終は騒動記や瓦版により関東各地へ流布された。特に甲斐国と隣接する武蔵国多摩地域や江戸、関東各地においては、天保8年(1837年)2月に大坂で発生した大塩平八郎の乱や、天保年間に相次いでいた異国船の来航とともに内憂として受け止められた。関東代官・江川の管轄する多摩地域の村々では天保騒動を契機として農兵銃隊が組織され、天然理心流など豪農層を中心に自衛手段としての農村剣術が活発化している。 甲斐国では天保騒動の被害を図化した国絵図も出版されている。これは文政8年(1825年)に身延山の参詣者向けに鰍沢(富士川町鰍沢)の書肆・古久屋紋右衛門から出版された甲斐国絵図を基にした「天保騒動絵図」で、笛吹市春日居町国府の辻家資料として伝来している。 天保騒動の後には、騒動を題材とした実録や聞き書きも刊行されており、『甲飄談(こうひょうだん』や『天保騒動記』、『甲陽乱妨記』、『甲斐国一揆騒動実記』、『峡陽来書』などがある。 甲斐国では19世紀初頭頃から博徒の活動が活発化し、天保騒動を挟んで幕末期には三井卯吉、竹居安五郎、黒駒勝蔵、国分三蔵ら、甲州博徒と呼ばれる多くの博徒が抗争を繰り広げた。天保騒動では多くの博徒が騒動に加担して激化したことから、事件を契機に甲斐国内では博徒の取り締まりが強化されている。 山梨県都留市金井の用津院には天保騒動の際に用いられたという竹槍が伝来している。この竹槍には約900字の文字で、騒動の発端から判決に至る経緯が記されている。
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