天保郷帳・国絵図
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 02:25 UTC 版)
天保2年(1831年)、江戸幕府は諸国の有力大名に郷帳の提出を命じ、天保5年(1834年)までに上納が完了した。続いて天保6年(1835年)、国絵図の改訂を命じ、天保9年(1838年)までに上納が完了した。天保郷帳・天保国絵図の正本は全て明治政府に引き継がれ、国立公文書館に保存されている。天保郷帳を作成するに当たり、幕府は表高(拝領高)に込高、新田高、改高を加えて集計した内高(実高)の報告を要求しており、天保郷帳記載の数字は全て内高である。ただし諸藩は内高報告には極めて慎重であり、例えば長州藩では支藩を含めて防長領国の総内高を97万0941石8斗1升5合5勺1才と把握していたが、幕府には寛政4年(1792年)の内検高89万4282石1斗を報告した。また薩摩藩は表高をもって内高であるという建前を貫いているなど、天保郷帳には各藩が把握していた内検高とは異なる内高がかなり掲載されている。
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