大隊長へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/13 04:29 UTC 版)
1937年9月7日、空軍中尉。1937年10月以降、第5大隊も連戦を強いられ、羅の体重は14キロも減少していた。12月7日、南京を離脱する蔣介石専用機の護衛につき、11日に撤退を完了させた。この間、9日に24中隊長に就任、また壊滅状態だった空軍第7隊隊長も兼任し、移駐再編業務を担う。翌年、南昌にてソ連空軍志願隊戦闘機隊長アレクセイ・ブラゴヴェシチェンスキー(ロシア語版)との共同作戦を行う。5月下旬、第4大隊第21中隊長。徐州会戦にて負傷。その後も肺を負傷し、成都にて療養生活を強いられる。 1940年の復帰後、第3大隊(長:劉志漢)副大隊長。同大隊長就任後の1941年3月、英領インドに赴きP-40B、のちにはP-43、P-66の受領任務に就く。のち第5大隊大隊長。第5大隊は1941年5月26日、蘭州の天水飛行場にて鈴木實大尉らの零戦に機体を破壊されて以来、懲罰措置として大隊番号を取り消され「無名大隊」と称されており、部隊員は全員飛行服の胸に「恥」の文字を縫い付けさせられていた。これらの屈辱的措置はかえって逆効果となり、部隊の士気は低下していた。羅は大隊長就任の条件として、これらの懲罰措置を取り消すよう要請。
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