大炊御門経敦とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 人名 > 美術人名辞典 > 大炊御門経敦の意味・解説 

大炊御門経敦

読み方おおいみかど

江戸初期公卿。経頼の次男。兄頼国の嗣子となる。経敦は初名、のち経孝、法名光福寺従一位左大臣天和2年(1682)歿、70才。

大炊御門経孝

(大炊御門経敦 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/07 22:48 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
 
大炊御門経孝
時代 江戸時代前期
生誕 慶長18年12月14日1614年1月23日
死没 天和2年6月26日1682年7月30日
改名 経敦(初名)→経孝
別名 号:後光福寺
官位 従一位左大臣
主君 後水尾天皇明正天皇後光明天皇後西天皇霊元天皇
氏族 大炊御門家
父母 父:大炊御門経頼、母:吉良義康の娘
兄弟 頼国経孝
経光、頼兼、諏訪忠晴養女、大久保忠高継室、花山院定誠正室
テンプレートを表示

大炊御門 経孝(おおいのみかど つねたか)は、江戸時代前期の公卿権大納言大炊御門経頼の次男。官位従一位左大臣後光福寺と号した。大炊御門家19代当主。後水尾天皇(108代)から霊元天皇(112代)の4代にわたって仕えた。

経歴

大炊御門経頼の次男として誕生。母は吉良義康の娘。異母兄に頼国、異父兄に今川直房がいる。初名は経敦

兄・頼国が猪熊事件に関与したとして硫黄島に配流されたために大炊御門家を相続する。慶長19年(1614年)に叙爵。以降累進し、寛永8年(1631年)に従三位となり、公卿に列した。その後、権中納言踏歌節会外弁・権大納言右近衛大将など要職を歴任し、明暦2年(1656年)には内大臣に就任。さらに寛文3年(1663年)には右大臣となり、寛文10年(1670年)従一位、左大臣となるが、寛文11年(1671年)に職を辞した。

系譜



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「大炊御門経敦」の関連用語

1
滋野井季吉 百科事典
16% |||||

大炊御門経敦のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



大炊御門経敦のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
株式会社思文閣株式会社思文閣
Copyright(c)2025 SHIBUNKAKU Co., Ltd. ALL RIGHTS RESERVED.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの大炊御門経孝 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS