大久保忠高とは? わかりやすく解説

大久保忠高

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/04 04:35 UTC 版)

 
大久保 忠高
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 元和5年(1619年
死没 元禄15年4月25日1702年5月21日
別名 市十郎(通称)、道無(号)
戒名 嶺翁院殿相岩道無大居士
墓所 東京都世田谷区太子堂最勝寺
官位 従五位下、山城守、佐渡守、伊豆
幕府 江戸幕府
近江国
氏族 大久保氏
父母 父:大久保忠知、母:稲垣長茂の娘
兄弟 忠高、忠信
正室:今川直房の娘、継室:大炊御門経孝の娘
源三郎、娘(青山幸豊正室)、娘(稲垣重房正室)常春、忠宜(三男)
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大久保 忠高(おおくぼ ただたか)は、江戸時代前期から中期の旗本大名烏山藩大久保家初代。

生涯

1500石を領した旗本大久保忠知の長男として生まれた。

正保元年(1644年)、父の死去により遺領を相続する。500石を弟の忠信に分与して1500石を領した。小姓組番頭、新番頭を経て寛文2年(1662年)1,000俵加増。延宝4年(1676年)に留守居となり、延宝7年には(1679年)2000俵、天和2年に(1682年)2000石をそれぞれ加増された。さらに側衆に進み、貞享元年(1684年)に2000石加増され、貞享3年(1686年)に1500石を加えて近江国6郡に計1万石を領する大名となった。

元禄2年(1689年)に徳川綱吉から側衆を罷免され閉門処分となった。

元禄12年(1699年)に家督を次男の常春に譲って隠居した。元禄15年(1702年)死去。


先代
-
近江国
1686年 - 1699年
次代
大久保常春




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