大平首相の急死と総理・総裁就任
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「鈴木善幸」の記事における「大平首相の急死と総理・総裁就任」の解説
1980年(昭和55年)5月、社会党提出の大平正芳内閣不信任案の採決が行われた。多数の自民党反主流派議員が欠席したため、不信任案は可決された。これに対抗して大平は衆議院を解散(ハプニング解散)した。しかし大平は選挙中に死亡、選挙は自民の圧勝となった。選挙後にポスト大平を選出することになったが、田中派は依然として総裁を出しにくく、不信任を誘発した福田派・三木派もその点は同様だった。中曽根康弘は本命の一人だったが、まだキングメーカー田中角栄の信頼を勝ち得ていなかった。そこで引き続き宏池会からの総裁選出の流れとなったが、首相臨時代理を務めていた伊東正義は本人が消極的で、やがて派閥を継承することが有力だった宮沢喜一は田中に好かれておらず、また生前の大平と必ずしも関係が良好でなかったこともマイナスに働いた。そこで宏池会で田中と近く、また大平政権を支えた鈴木が自然と浮上した。形式的には自由民主党副総裁の西村英一が次期総裁に鈴木善幸を指名したことで、鈴木が総理総裁に就任した(西村裁定)。なお、日本社会党在籍経験のある内閣総理大臣としては、片山哲以来であり、社会党在籍経験のある唯一の自民党総裁である。 首相に選出された際、海外での知名度不足からアメリカのメディアに「ゼンコー フー?(Zenko who?)」と言われた。明治生まれとしては、最後の内閣総理大臣であった。
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