大幸館期
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1892年(明治25年)、工部美術学校で堀江と同窓だった大野(曽山)幸彦が死没する。大野は画学専門学校廃校後も私塾を開き、洋画の指導をしていた。大野の死後、弟子の玉置金司、岡田三郎助、中沢弘光たちは堀江を教師として招聘し、新たな洋画の私塾を開いた。この私塾は大野幸彦の名前をとって「大幸館」と名付けられた。工部美術学校の同窓生である松室を顧問に迎え、堀江はこの私塾で週2回講師を務めた。ほかに、玉置は助教授を務めた。大幸館も経営が苦しかったため、堀江は塾を維持するために各国の大使館からの依頼を受けて仕事をしていたといわれるが、その作品の詳細はわかっていない。林董の紹介により、ロシア皇帝の肖像画やイタリア公使館の壁画を手がけたと言われている。この頃堀江が指導した塾生には和田英作、岡田三郎助、中沢弘光、矢崎千代二、三宅克己、高木背水、北澤楽天、亘理寛之助などがいる。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}1896年(明治29年)に東京美術学校に西洋画科ができると、主な塾生は助教授や生徒としてそちらに移ってしまい、翌97年(明治30年)閉塾となっている。堀江は東京美術学校に移らなかったため、同じ道を選んだ北澤楽天を預かって新聞小説の挿絵などを描いて生計を立て、楽天が横浜の週刊英字新聞社に入社するまで指導した。[要出典]
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