大幸館期とは? わかりやすく解説

大幸館期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/13 14:56 UTC 版)

堀江正章」の記事における「大幸館期」の解説

1892年明治25年)、工部美術学校堀江同窓だった大野曽山幸彦死没する。大野画学専門学校廃校後私塾開き洋画指導をしていた。大野死後弟子玉置金司、岡田三郎助中沢弘光たちは堀江教師として招聘し、新たな洋画私塾開いた。この私塾大野幸彦の名前をとって「大幸館」と名付けられた。工部美術学校同窓生である松室顧問迎え堀江はこの私塾で週2回講師務めた。ほかに、玉置助教授務めた大幸館も経営苦しかったため、堀江は塾を維持するために各国大使館からの依頼受けて仕事をしていたといわれるが、その作品詳細わかっていない。林董紹介により、ロシア皇帝肖像画イタリア公使館壁画を手がけたと言われている。この頃堀江指導した塾生には和田英作岡田三郎助中沢弘光矢崎千代二、三克己高木背水北澤楽天亘理寛之助などがいる。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}1896年明治29年)に東京美術学校西洋画科ができると、主な塾生助教授生徒としてそちらに移ってしまい、翌97年明治30年)閉塾となっている。堀江東京美術学校に移らなかったため、同じ道を選んだ北澤楽天預かって新聞小説挿絵などを描いて生計立て楽天横浜週刊英字新聞社に入社するまで指導した。[要出典]

※この「大幸館期」の解説は、「堀江正章」の解説の一部です。
「大幸館期」を含む「堀江正章」の記事については、「堀江正章」の概要を参照ください。

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