大友氏の筑後支配に反旗を翻す
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「西牟田氏」の記事における「大友氏の筑後支配に反旗を翻す」の解説
元中9年/明徳3年(1392年)に南北朝が統一されると、筑後では豊後国(大分県)の大友氏が勢力をふるった。かつて大友氏と激しく戦った西牟田氏も、「筑後十五城」と呼ばれる大友傘下の戦国大名に組み入れられた。 西牟田氏領地の石高は、戦国末期頃で5~6万石と言われている。 大友氏の筑後支配は苛斂誅求であった。筑後国人は大友氏の外征戦争では常に第一線に配置され、大友氏の親軍はその後方から督戦した。浮羽郡の問注所氏が秋月氏との戦いで全滅的損害を受けたり、日州(現在の宮崎県)耳川の戦いで蒲池鑑盛ら筑後国人の多くが討死したのはその例である。また、筑後の国人領主たちは、任官、叙位、家督相続までも全て大友家の決済を仰がねばならず、必要に応じて資金の提供も義務つけられていた。また、大友家の古くからの儀式である「八朔太刀馬の儀式」に貢物を持参しての参加も義務づけられ、筑後十五城の旗頭・蒲池鑑貞は、これを怠ったために府内に呼び出され誅殺されている。 西牟田氏は、斯かる大友氏の支配を快く思わず、しばしばこれに背いている。天文3年(1534)9月には、西牟田播磨守親毎・親氏父子が三池氏、溝口氏、辺春氏、肥後の小代氏、大野氏らとともに叛旗をひるがえしたが、大友義鑑の兵によって誅伐された。天文19年(1550年)にも、西牟田播磨守鎮豊が肥後の菊池義武に呼応して、筑後の小山氏、三池氏、溝口氏らとともに反大友の軍事行動を起こしている。
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