大友氏の筑後支配に反旗を翻すとは? わかりやすく解説

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大友氏の筑後支配に反旗を翻す

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/22 18:30 UTC 版)

西牟田氏」の記事における「大友氏の筑後支配に反旗を翻す」の解説

元中9年/明徳3年1392年)に南北朝統一されると、筑後では豊後国大分県)の大友氏勢力ふるった。かつて大友氏激しく戦った西牟田氏も、「筑後十五城」と呼ばれる大友傘下戦国大名組み入れられた。 西牟田氏領地石高は、戦国末期頃で5~6万石と言われている。 大友氏の筑後支配苛斂誅求であった筑後国人は大友氏外征戦争では常に第一線配置され大友氏の親軍はその後方から督戦した。浮羽郡問注所氏秋月氏との戦いで全滅損害受けたり日州現在の宮崎県耳川の戦い蒲池鑑盛筑後国人の多く討死したのはその例である。また、筑後の国領主たちは、任官叙位家督相続まで全て大友家決済を仰がねばならず、必要に応じて資金の提供も義務つけられていた。また、大友家古くからの儀式である「八朔太刀馬の儀式」に貢物持参して参加義務づけられ、筑後十五城旗頭蒲池鑑貞は、これを怠ったために府内呼び出され誅殺されている。 西牟田氏は、斯かる大友氏支配快く思わず、しばしばこれに背いている。天文3年(1534)9月には、西牟田播磨守親毎・親氏父子三池氏、溝口氏、辺春氏、肥後小代氏大野氏とともに叛旗ひるがえしたが、大友義鑑の兵によって誅伐された。天文19年1550年)にも、西牟田播磨守鎮豊が肥後菊池義武呼応して筑後小山氏三池氏、溝口氏とともに大友軍事行動起こしている。

※この「大友氏の筑後支配に反旗を翻す」の解説は、「西牟田氏」の解説の一部です。
「大友氏の筑後支配に反旗を翻す」を含む「西牟田氏」の記事については、「西牟田氏」の概要を参照ください。

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