大久保・四谷の犬小屋
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/22 01:26 UTC 版)
「犬小屋 (江戸幕府)」の記事における「大久保・四谷の犬小屋」の解説
幕府は、大久保・四谷・中野に犬小屋を新設した。喜多見村の御用屋敷が主に病犬を収容したのに対して、ここに収容された犬は飼い主のいない無主犬が中心だった。これは、犬小屋への収容が病犬・子犬の保護から、野犬対策へと比重を移していったと考えられている。 元禄8年(1695年)3月に、幕府は千駄ヶ谷村(現・東京都渋谷区・新宿区)に犬小屋の建設を決定し、同月30日に普請を担当する奉行として、御側の米倉昌尹と藤堂良直が、助役として松平利直(加賀国大聖寺藩主)が任命された。 四谷犬小屋の建設地として、千駄ヶ谷村の柳沢保明(柳沢吉保)の屋敷が召し上げられ、御用地として1万8928坪7合が元禄8年4月5日に引き渡された(『東京市史稿』産業篇第八)。柳沢吉保には代地として武蔵国豊島郡駒込村(現・東京都文京区・豊島区)の土地4万7000坪が与えられ、その一部が後の六義園となる。同時に大久保村(現・東京都新宿区)地内のおよそ2万5000坪の土地にも犬小屋が建設された。 普請を命じられた大聖寺藩は元禄8年に毎日5000から6000人の人足を出して、2万坪余の敷地に長さ40間の小屋を多数建設した。当初は幕府から犬小屋の建設であることを隠すよう指示され、普請に携わった者たちからも誓詞を取り隠密に実施するように命じていた。 犬小屋の竣工後、普請に尽力した者たちは、幕府から同年6月1日と2日に時服などが下賜された。また竣工前の5月23日、元禄6年(1693年)9月の鷹遣い停止で鷹狩が廃止になったことで職を解かれた5人の鷹匠が寄合番に役替えとなり、犬小屋の支配となった。子犬の繁殖を防ぐため、主に江戸中の牝犬を収容したが、2年余りで四谷犬小屋は廃止され、犬はかねてより建設が進められていた中野犬小屋に移された。
※この「大久保・四谷の犬小屋」の解説は、「犬小屋 (江戸幕府)」の解説の一部です。
「大久保・四谷の犬小屋」を含む「犬小屋 (江戸幕府)」の記事については、「犬小屋 (江戸幕府)」の概要を参照ください。
- 大久保・四谷の犬小屋のページへのリンク