壬生の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/01 05:23 UTC 版)
先の小山の戦いで敗北したのを受け、東山道総督府は18日に河田佐久馬(景与)率いる救援軍の鳥取藩兵と土佐藩兵計500人を宇都宮に向けて派兵、河田隊は20日に壬生城に入った。また河田隊に先立ち、18日には伊地知正治率いる救援軍の薩摩・長州・大垣藩兵計550人、20日には大山弥助(後の巌)率いる救援軍薩摩・長州藩兵を派兵、さらに3日後の23日(5月15日)には総督府参謀板垣退助自ら迅衝隊および土佐藩兵を派兵する。宇都宮城を明け渡した宇都宮藩兵は館林へ、香川らは古河へ入った。県信緝は早籠で板橋に向かい、宇都宮城の顛末を東山道総督府へ報告している。 壬生城に入城した河田隊は、直ちに宇都宮と壬生を結ぶ官道を封鎖すべく安塚の姿川淀橋付近に陣を張り、鳥取藩兵および土佐藩兵を派兵した。 一方、宇都宮城の旧幕府軍は江戸を後発し既に壬生周辺や今市(現・日光市)周辺に進軍して来ていた永倉新八ら新撰組や郡上藩兵および衝鋒隊、そして下野に侵入していた会津藩兵と連携して壬生城攻略を企て、21日(5月13日)に宇都宮城を出立、翌22日(5月14日)未明に新政府軍安塚陣地に総攻撃をかけた。連戦連勝の旧幕府軍の勢いは猛烈で、新政府軍は劣勢であった。旧幕府軍の一部は安塚に侵入するほどであった が、折からの豪雨で兵の疲労が嵩み、安塚劣勢の報を受けて壬生城から討って出た河田自ら率いる鳥取藩兵の猛烈な反撃に遭って、姿川対岸に撤退した。さらに東山道総督府の追加派遣の救援軍が壬生城に接近している報を受け、旧幕府軍は止む無く宇都宮城へ撤退した。この戦闘で新政府軍は戦死16名という少なくない被害を出した一方で、旧幕府軍は戦死者だけでも60~70人という大被害を受けた。
※この「壬生の戦い」の解説は、「宇都宮城の戦い」の解説の一部です。
「壬生の戦い」を含む「宇都宮城の戦い」の記事については、「宇都宮城の戦い」の概要を参照ください。
- 壬生の戦いのページへのリンク