地頭職の喪失と五十子の所領問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/25 23:09 UTC 版)
「本庄国房」の記事における「地頭職の喪失と五十子の所領問題」の解説
14世紀初めの正和3年(1314年)7月23日に、由利頼久(通称八郎)との間に本庄内の生子(いらこ)屋敷と立野林の畠地について争いが生じ、鎌倉幕府の裁定により、頼久の知行が認められたとされる(根津美術館所蔵の古文書より)。しかし、時家の末裔と称される本庄宮内少輔信明の所領中には五十子(いらこ)があり、国房以降、何らか(武力と言った実力行使を含め)のきっかけで本庄氏が治めたものと見られる(五十子の戦い以降も本庄氏が自分の領地としている)。 根津美術館所蔵の文書の内容によると、これ以前にも、正応4年(1291年)10月2日に頼久と問題になり、先月26日に示談が成立したが、国房の方になお問題があり、曾祖父である時家より代々相伝してきた筑前国小中庄の地頭職を頼久に与える事となったとあり、4代かけて地頭として治めてきた九州の所領(地頭職)を本庄氏が失ったとされる(資料的には、時家がどの様な功績から小中庄の地頭職を与えられたのかは不明)。 こうした事からも、国房と頼久がたびたび言い争いをしていた事がうかがえ、また、この古文書の存在からも、庄氏が13世紀頃に本庄氏を称していた事は確定的な事である。また、古文書の内容が事実であるのなら、地理的に考えて、糟屋郡小中庄(現篠栗町)にいた時家系本庄氏(の2代目か3代目か)は元寇を経験した可能性も生じてくる。しかし、そうした伝承は今のところ確認できない。
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