地頭横暴反対運動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2014/03/02 05:17 UTC 版)
「小山田村地頭横暴反対運動」の記事における「地頭横暴反対運動」の解説
小山田村を給地としていた盛岡藩士・野田氏の代官として、一族である野沢氏が地頭として当地を治めていた。野沢氏は、集落の奥にある山の手に舘を構えており、村の肝入、老名である三浦家や、野沢氏の警護役であった小野寺家、他に鈴木家、小山田薬師堂別当職である岩沢家などが舘周辺に集落をなしていた。 天保年間から嘉永年間にかけて、これら村民が地頭の横暴に耐えかね、数度野田氏や宮古代官所まで訴え出た事が小山田村肝入家の文書として残っている。元々安永年中より地頭の権威を笠に着た野沢氏の専横は続いていたが、百姓の屋敷を勝手次第に取り上げて過料を申し付けるなどの野沢氏の横暴に耐えかねた小山田、松山、八木沢村の村人らは小山田村肝入の三浦家を中心として、薬師別当の岩沢家や松山村の武家である大久保勘右衛門、野田氏の家臣である山崎伊惣太などに働きかけると共に、盛岡の野田氏に連判状を出すなどして窮状を訴えていた。これらの事を重く見た野田氏により野沢氏は代官失格と判断され、身帯、家屋、田畑を取り上げられ小山田村を追放され、野沢氏は田老村へ落ち延びることとなる。
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