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国分新七郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/12 01:43 UTC 版)

国分 新七郎
生誕 1894年11月9日
日本 三重県
死没 (1984-06-01) 1984年6月1日(89歳没)
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1916年 - 1945年
最終階級 陸軍中将
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国分 新七郎(こくぶん しんしちろう、1894年明治27年)11月9日[1] - 1984年昭和59年)6月1日[1])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。

経歴

1894年(明治27年)に三重県で生まれた[1]陸軍士官学校第28期、陸軍大学校第35期卒業[1]1936年(昭和11年)12月に関東軍参謀に就任し[2]1937年(昭和12年)3月1日陸軍歩兵大佐に進級[2]11月1日第5師団参謀(北支那方面軍)に転じ[2]日中戦争に出動[1]。チャハルから平型関を抜き[1]、忻口鎮の激戦を戦い[1]太原を攻略[1]台児荘の戦いにも出動したが苦戦を強いられた[1]1938年(昭和13年)6月に陸軍省高級副官に転じ[2]1939年(昭和14年)8月に歩兵第46連隊長を経て[2]1940年(昭和15年)8月に陸軍士官学校生徒隊長に就任した[2]

1941年(昭和16年)8月25日に陸軍少将に進級し[2]9月11日に陸軍士官学校教授部長に就任した[1]1942年(昭和17年)6月に第1独立守備隊長(関東防衛軍)に転じ[1]1943年(昭和18年)6月に第16軍参謀長(第7方面軍)となり[1]ジャワ島に出征[1]1944年(昭和19年)10月26日に陸軍中将に進級し[2]11月14日第46師団長(第2方面軍第19軍)に親補され[1]、豪北方面に出動[1]。その後、第7方面軍隷下に編入され[1]クルアンで終戦を迎えた[1]

1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[3]

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 福川 2001, 302頁.
  2. ^ a b c d e f g h 外山 1981, 389頁.
  3. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」53頁。

参考文献

  • 福川秀樹 編著『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。ISBN 4829502738 
  • 外山操 編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。 ISBN 4829500026 



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