回顧5 ― ディオンの死と、忠告
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/10 14:29 UTC 版)
「第七書簡」の記事における「回顧5 ― ディオンの死と、忠告」の解説
ディオンはペロポネソス及びアテナイから兵を挙げて、シュラクサイを解放した(紀元前357年)。ディオンはディオニュシオス2世の教育を望んでいたが、しかし、またしても僭主周辺の中傷屋による喧伝によって、ディオニュシオス2世及びシュラクサイ市民の間に、ディオンに対する反感情緒が形成されてしまった。そしてディオンの二人のアテナイ人従者が加担する形で、ディオンは殺されてしまった(紀元前353年)。 再度忠告。「国家は、専制者を仰ぎその下に従属するものであってはならず、法の下にこそ従属せねばならない」。この説得を、最初はディオンに、次にディオニュシオス2世に、そして3度目に今諸君に試みている。 また、シケリア風の生活を追い求めるような者を仲間にするべきではなく、それよりはむしろ外部の人間を援助者として招くべき。ギリシア人の中から、高齢者で、妻子を持ち、名家で、財産家の者を要請して迎え、法律の制定を委嘱する。そして、法律が制定されたら、勝者自ら法律に服してみせる。そうすれば、全てが安全と至福に満たされ、あらゆる災害からの脱出が可能になる。 もし、こうした「自ら法に服する」という意志がないのであれば、自身(プラトン)を協力者として招くべきではない。 実はこの方策は、ディオンも、(ディオニュシオス2世の善王への教育という第一策に次いで、)二番目の策として実行しようと試みていた。
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