回顧4 ― 第二回シケリア旅行とディオニュシオス2世
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/10 14:29 UTC 版)
「第七書簡」の記事における「回顧4 ― 第二回シケリア旅行とディオニュシオス2世」の解説
やがて僭主ディオニュシオス1世が死に(紀元前367年)、ディオニュシオス2世が即位する。(当時42歳頃の)ディオンは、かつての自分のように、ディオニュシオス2世も哲学によって馴致されれば善政が行われるようになるのではないかと期待し、ディオニュシオス2世を説得して自身(プラトン)を招請させた。ディオンは自分の勢力や、親類としてのディオニュシオス2世との関係、彼自身の哲学への意欲を含め、その時がまさに千載一遇のチャンスだと考えていた。 自身(プラトン)はその熱心さに動かされ、2回目のシケリア旅行へ向かった(紀元前367年-紀元前366年)。しかし、いざ着いてみると、ディオニュシオス2世の周囲は、派閥争いやディオンへの中傷で満たされていた。自身(プラトン)は必死に弁護したが、4ヶ月後、ディオンは追放されてしまった。更に自身(プラトン)も、共謀者として風評を流された。ディオニュシオス2世は、体裁をつくろい、自身(プラトン)に残留を求めつつ、城壁内で軟禁状態に置いた。 ディオニュシオス2世は、自身(プラトン)に徐々に愛着を寄せるようになったが、中傷屋の口入れで哲学の道へは踏み込んで来なかった。 自身(プラトン)とディオンは、ディオニュシオス2世に、できる限り自らに克ち、信頼の置ける友達・仲間を獲得すること (成功例としてペルシア王ダレイオス、失敗例としてディオニュシオス1世) 同年輩の者達から友人・協力者を、自分自身のためにも獲得すること を助言していたが、ディオニュシオス2世に反逆を企んでいるという風評によって、ディオンは追放されてしまった。
※この「回顧4 ― 第二回シケリア旅行とディオニュシオス2世」の解説は、「第七書簡」の解説の一部です。
「回顧4 ― 第二回シケリア旅行とディオニュシオス2世」を含む「第七書簡」の記事については、「第七書簡」の概要を参照ください。
- 回顧4 ― 第二回シケリア旅行とディオニュシオス2世のページへのリンク