喪失と再建の江戸期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 05:39 UTC 版)
元和元年(1615年)には社殿が焼失したが、江戸幕府将軍徳川秀忠により社領350石の寄進を受け、寛永10年(1633年)に徳川家光が再建を命じ、5年後に完成した。 慶安4年(1651年)には彦根藩主井伊直孝により社領150石の寄進を受けている。 明和3年(1766年)に屋根の葺き替え等の大改修が成る。ところが、安永2年(1773年)には大火災によって大半の社殿が焼失してしまう。さらには天明2年(1782年)にも火災に遭う。その上、寛政3年(1791年)には暴風で多くの社殿が倒壊した。このように江戸時代の多賀社は災難続きであったが、その都度彦根藩および幕府からの手厚い寄進・寄付が行われ、文化5年(1808年)には本殿が再建された。 車戸家は古代より当社の神職を務めている。幕末に出た多賀社大祢宜の車戸宗功は長州藩士や土佐藩士を命がけで援助した。それによって後には贈従五位を賜っている。車戸一族は天皇家、公家だけでなく、他にも徳川家、彦根藩、彦根城のためにも奔走している。
※この「喪失と再建の江戸期」の解説は、「多賀大社」の解説の一部です。
「喪失と再建の江戸期」を含む「多賀大社」の記事については、「多賀大社」の概要を参照ください。
- 喪失と再建の江戸期のページへのリンク