吉武高木遺跡の意義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/16 14:38 UTC 版)
吉武高木遺跡の特定集団墓から出土した青銅器はいずれも大陸系の遺物であるが、大陸から渡来した青銅器はやがて北部九州でも作られるようになる。これは青銅器の製作技術をもつ人々が朝鮮半島から渡来したためと考えられ、初期青銅器には大陸製か日本製か判断のむずかしいものがある。3号木棺墓から出土した銅鏡は、鏡背に細線で細かな文様を表し、中心からずれた位置に2つの鈕(ちゅう)を設け、外縁は蒲鉾形断面とし、鏡面はわずかに凹面になるなど、著しい特色をもつ。この種の鏡を多鈕細文鏡(たちゅうさいもんきょう)と称する。多鈕細文鏡は朝鮮半島と日本に分布するが、その起源は中国東北部の青銅器文化に属する多鈕粗文鏡であるとされる。この種の鏡の日本での出土は十数例しかない。 3号木棺墓からは、皇位継承にかかわる「三種の神器」をイメージさせる銅鏡、銅剣、勾玉が出土している。銅鏡、銅剣、勾玉の組み合わせは弥生時代の北部九州に由来し、なかでも本遺跡3号木棺墓の副葬品はその最古の実例と考えられる。 吉武高木遺跡については、奴国首長墓とされる須玖岡本遺跡D地点や伊都国首長墓とされる三雲南小路遺跡に先立つ、「最古の王墓」との見方もある。ただし、弥生中期前半に属する吉武高木遺跡を、中期後半の須玖岡本および三雲と同様の「王墓」とみなしてよいかについては、なお慎重な見方もある。
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