吉本隆明との関係
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『中央公論』1960年4月号で、詩人で思想家だった吉本隆明を招き、葉山岳夫などのブント幹部とともに座談会を行った。以降、吉本は世界初の共産党からの独立左翼と言われるブントと行動をともにする。吉本はこのとき、「同伴知識人第二号」として批判された。なお一号は社会学者の清水幾太郎。島らの依頼で吉本は6月15日の国会構内抗議集会で演説。鎮圧に出た警官との軋轢で死者まで出た流血事件の中で100人余と共に「建造物侵入現行犯」で逮捕された。 島と吉本は以後も交流を続け、1960年9月、安保ブントが解体状況を露呈し島がブント内で孤立して沈黙を守っているときの島の日記には吉本宅を訪ねた後の感想として「彼の考えは俺とすこぶる共通している」とある。 1961年9月には吉本が谷川雁、村上一郎らとともに雑誌『試行』を創刊したが、その資金は島が用意した。島の「ノート」によれば、「いかにして革命的復活をなしとげるか」として、その成果の一番目に「吉本隆明らの雑誌の発行の目安が付いた」(61年6月25日付け)ことが挙げられている。資金は、当時の金で11万円ほどだった。 2000年10月、島の死の際には吉本は「知っている範囲で、谷川雁さんと武井昭夫さんとともに島成郎さんは『将たる器』をもった優れたオルガナイザーだと思ってきた」と追悼文を書いた。
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