古川竹二による「血液型気質相関説」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/30 20:28 UTC 版)
「血液型占い」の記事における「古川竹二による「血液型気質相関説」」の解説
長崎の教育学の人であった古川竹二は、日本心理学の機関紙『心理学研究』第2巻4号(1927年8月)において、「血液型による気質の研究」を掲載(後述書 p.212)。これを皮切りとして、学術書や一般雑誌に自説を展開していくこととなるが、当時、国民は今(二次大戦後)ほど自分の血液型を把握していなかった(後述書 p.212)。なお学説の名称自体は古川自身が付けたものではなく、古川学説派による(後述書 p.212)。古川は、「い組」と「ろ組」とにアンケートし、その結果として、い組のB・O型の85パーセントは能動的で、残りは受動的、ろ組のA・AB型の81.9パーセントは受動的で、残りは受動的という結果を出したものの、同じ調査方法をした大村政男によれば、い組もろ組もおよそ半々であり、大差はみられないとしている(後述書 pp.212 - 213)。吉川は、A・AB型を受動的で、B・O型を能動的としたが、これでは2分法であり、まだ4分法ではない。そこで吉川は、い組とろ組を数項目に分類し、4分法を構築することにした(後述書 pp.214 - 215)。なおAB型に関しては、外面はB型に似るが、内面はA型とする(後述書 p.214)。これをベースに血液型による短所・長所を発表し、1932年(昭和7年)、東京の三省堂から『血液型と気質』という大著を出す(後述書 p.216)。ここにほぼ血液型占いの原型が形成されたといえるが、各界における賛否は両論であり、1933年(昭和8年)3月、岡山医科大学における日本法医学会第18次総会での論争で、古川学説は破れ(厳密には否定派・肯定派が噛み合わず)、衰退していくこととなる(後述書 pp.220 - 222)。 古川学説は衰退していくこととなるが、1934年時点ではまだ影響力は残しており、輜重第16大隊の井上日英軍医は、血液型によって、勇敢な集団・堅実な集団・中庸的な集団を編成する(後述書 p.222)。
※この「古川竹二による「血液型気質相関説」」の解説は、「血液型占い」の解説の一部です。
「古川竹二による「血液型気質相関説」」を含む「血液型占い」の記事については、「血液型占い」の概要を参照ください。
- 古川竹二による「血液型気質相関説」のページへのリンク