収縮する俗論派
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/14 23:14 UTC 版)
1月25日、藩主父子は東光寺派の建言を入れ、再び清末藩藩主毛利元純を山口の諸隊へ派遣し和平交渉を行わせようとするが、俗論派が大挙して押し寄せこれを阻止しようとした。しかしこの日、諸隊鎮静総奉行毛利宣次郎は兵を率いて萩へ帰陣する。また藩政府が支藩に求めていた援軍要請についても、正義派に同情的な長府藩藩主毛利元周らは最初から無視した。岩国領の吉川経幹は要請に応え兵を挙げたが、和平使者として毛利元純が諸隊と交渉中だと聞くと岩国へ帰陣した。継戦を望む俗論派の求心力は失われてゆく。 1月28日、藩政府は休戦の延長を申し入れたが諸隊は拒否した。 1月30日、奇兵隊は篠目口より榎木谷へ、遊撃隊は福江口より西市へ進撃を開始した。また諸隊に属していた癸亥丸を萩城城外の海上に進出させ示威行動を行わせる。この事態に敬親父子は主だった俗論派の重臣を革職した。さらに諸隊に使者を送り、俗論派を革職したことと藩政改革を行う用意があることを伝えた。これにより諸隊は進撃を止めた。
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