南部政行 (12代当主)とは? わかりやすく解説

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南部政行 (12代当主)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/24 09:15 UTC 版)

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南部政行
南部政行
時代 南北朝時代
生誕 嘉暦3年(1328年
死没 元中5年/嘉慶2年10月18日1388年11月17日
別名 政信、仮名:六郎
戒名 了知院殿浄嶽清公、道行、源了院浄岳清光(清公)
官位 遠江守
氏族 三戸南部氏
父母 南部信長
守行、葛西詮清室
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南部 政行(なんぶ まさゆき)は、南北朝時代武士三戸南部氏12代当主。

生涯

11代当主・南部信長の子。信長の養嗣子となったとする説もある。

当主としての力がなく、領地を同族に横領されていた。鎌倉幕府が滅亡して南北朝時代に入ると、北畠顕家奥州を統治していた経緯から、始めは南朝勢力に与した[1][2]

しかし正平元年(1346年)に足利尊氏の調略に応じて北朝方に寝返り、奥州の南朝勢力と戦って勢力を拡大したという説もあり、南部氏系譜を混在ならしめている。元中5年/嘉慶2年(1388年10月18日に61歳で死去。後を子の守行が継いだ。

脚注

  1. ^ 興国元年(1340年)に北畠顕信が奥州に下向しようとした時、足利勢の石塔義房の兵に阻まれ白河に止まる。この時政行は幼年だった為、叔父の仲行茂行信行等は協力して顕信を援けた。
  2. ^ この叔父たちの輔佐の功により、正平15年(1360年)に政行は奏請して茂行を津軽田舎郡冬井、日間野両郡并に外ヶ浜野尻郷に、信行を田舎郡黒石郷鼻和郡目谷郷に分封した。この時仲行は既に卒していたので領地の分与はなしとされている。『南部史要』第12世政行公事績より

参考文献

  • 吉田政吉『盛岡南部氏物語』国書刊行会、1975年
  • 菊池悟朗『南部史要』第4版、熊谷印刷出版部、1972年



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