千利休らとの交友
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/04 01:26 UTC 版)
初代川端道喜は若い頃、武野紹鴎から茶の湯を学んだと伝えられている。同じく武野紹鴎から茶の湯を学んだ千利休の兄弟弟子ということになり、また利休からの書状から「道喜老人」と呼びかけられていることから、初代川端道喜は利休よりも年長であったと考えられる。「家の鏡」によれば初代川端道喜は利休の弟子で、親しい関係にあったとしており、利休が茶の湯を大成させていく中で弟子となったとの推定もある。 川端家や徳川美術館などに利休からの「朝顔の茶会」への招待状や、川端道喜の菓子を褒める内容の書状など、利休と初代川端道喜との交友を示す書状が遺されている。書状の内容から初代川端道喜は利休主催の茶会にしばしば招かれており、足利義政愛用とされ、利休秘蔵の茶壷「橋立の茶壷」を借り受けたことがあるなど、深い親交があったと考えられている。また古田織部から初代川端道喜宛の、古田織部が初代川端道喜を通じて千利休の茶会に招かれたことを感謝する内容であると見られる書状が遺っている 他に千利休が初代川端道喜を「御前」に紹介したとの内容の書状も確認されている。この書状で利休が川端道喜に紹介した「御前」とは、天皇であるとの推測と、信長ないし秀吉、あるいは信長政権下で京都所時代であった村井貞勝ではないかとの意見がある。利休晩年の茶会「利休百会記」に、初代川端道喜は2回招かれており、うち一回は京都所司代の関係者と同席だったことなどから、初代川端道喜は千利休を始めとする茶人たちと交流を深め、その中で茶の湯を楽しむ秀吉らとの関係を作っていったとの見方もある。
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