加藤嘉明との対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 12:56 UTC 版)
慶長2年7月の唐島海戦の論功行賞の席上、一番乗りをめぐって対立をした。その時は高虎の戦功が認められたのであるが、それ以来、いざこざが絶えなかった。 高虎の領地が今治藩、嘉明のそれが伊予松山藩と隣接していたことも事情にあるとされる。決定的なのが慶長9年(1604年)、高虎の養子・高吉の家臣が同僚ともめた挙句斬殺して嘉明の領内・拝志城下へ逃げ込んだ事件である。高虎と嘉明の家臣は身柄引渡しを巡って対立し、一触即発の状態となったが、高吉が責任を取り野村郷にて蟄居したことで武力衝突が免れた。この事件は後に「拝志騒動」と呼ばれている。 後年、陸奥会津藩主の蒲生氏が嗣子無く改易されたとき、徳川秀忠は高虎に東北要衝の地である会津を守護させようとした。しかし高虎は「私は老齢で遠方の守りなどとてもできませぬ」と辞退した。秀忠は「では和泉(高虎)は誰がよいと思うか」と尋ねると、加藤嘉明を推挙した。高虎と嘉明は朝鮮出兵の巨済島海戦での論功行賞を巡って対立し、領国も隣り合わせで家臣らの間でも騒動が絶えなかった。秀忠がこれについて案じたが、高虎は「嘉明とは、私事・公事は別である。会津は要衝なので、剛勇で技量の優れた嘉明らが適任だ」と答えている。寛永4年2月、赴任中の嘉明は江戸の藤堂屋敷を訪ね、高虎に今までの無礼を詫びたという。これ以後、二人は昵懇の仲になったとされている(『高山公言行録』)。
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