拝志騒動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 15:38 UTC 版)
慶長9年(1604年)、高虎の留守に隣接する松山城主加藤嘉明との合戦未遂事件・拝志騒動がおこり、その責任をとらされて、高虎によって宇和郡野村に蟄居させられた。しかし慶長11年になって、家康の口添えで蟄居が解かれ、備中国後月・小田郡内で1万石を加増された。
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