劉子羽神道碑
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『劉子羽神道碑』(りゅうしうしんどうひ、全名は『宋故右朝議大夫充徽猷閣待制贈少傅劉公神道碑』)の建碑は淳熙6年(1179年)で、朱子の撰書である。書体はやや行書に近い穏健端正な楷書で、各行84字、46行あり、品格が高く謹厳な学者の風趣が表れている。篆額は張栻の書で、碑の全名の21字が7行に刻されている。張栻は優れた宋学の思想家で、朱子とも親交があり、互いに啓発するところがあった人物である。碑は福建省武夷山市の蟹坑にある劉子羽の墓所に現存する。拓本は縦210cm、横105cmで、京都大学人文科学研究所に所蔵され、この拓本では磨滅が少ない。 劉子羽(りゅう しう、1097年 - 1146年)は、軍略家。字は彦脩、子羽は諱。徽猷閣待制に至り、没後には少傅を追贈された。劉子羽の父は靖康の変に殉節した勇将・劉韐(りゅうこう)で、劉子羽の子の劉珙(りゅうきょう)は観文殿大学士になった人物である。また、劉子羽は朱子の父・朱松の友人であり、朱子の恩人でもある。朱松は朱子が14歳のとき他界しているが、朱子は父の遺言によって母とともに劉子羽を頼って保護を受けている。 劉珙が淳熙5年(1178年)病に侵されるに及び、父の33回忌が過ぎても立碑できぬことを遺憾とし、朱子に撰文を請う遺書を書いた。朱子は恩人の碑の撰書に力を込めたことが想像される。
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