前線の不安定さ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/09 15:15 UTC 版)
ヤマシー族とカトーバ族が鉾を納めると、サウスカロライナ民兵隊は放棄されていた開拓地を確保し、前線の安全を確保するために、プランテーションの家屋の幾つかに防御を施して要塞化した。民兵隊は先制攻撃も行ったが、襲撃部隊から全植民地を守ることは不可能だった。民兵の中には1715年の夏に退去して脱走する者も現れた。自分達の家産や家族を気遣う者も居れば、単にサウスカロライナを共に離れるだけの者もいた。 民兵隊の失敗に対応してクレイブン知事は職業的軍隊(すなわち給与の出る兵士の軍隊)に置き換えた。1715年の8月までに、サウスカロライナの新軍には600名の市民と400名の黒人奴隷、170名の友好的インディアン、およびノースカロライナとバージニアから300名の兵士が参加した。サウスカロライナにとって民兵を解体し、職業的軍隊を作ったのは初めてのことであった。戦争遂行のために多くの黒人奴隷を武装させたのも注目すべきことであった。奴隷についてはその主人に給与が支払われた。 この軍隊でも植民地の安全確保には不十分であった。敵対的なインディアンは単に会戦を拒むだけでなく、予想できない襲撃や急襲という戦い方を選んだ。さらにインディアンは大きな領土を占領していたので、軍隊を差し向けても効果のないことが多かった。1716年にチェロキー族との同盟が成立すると軍隊も解体された
※この「前線の不安定さ」の解説は、「ヤマシー戦争」の解説の一部です。
「前線の不安定さ」を含む「ヤマシー戦争」の記事については、「ヤマシー戦争」の概要を参照ください。
- 前線の不安定さのページへのリンク