前線の狭間の街
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/11 06:29 UTC 版)
「ライネ (ミュンスターラント)」の記事における「前線の狭間の街」の解説
この戦争は、ある意味では、ハプスブルク家とフランスとの対立であり、ヨーロッパにおける覇権を巡る戦いであった。この戦争は、神聖ローマ帝国内のカトリック連盟とプロテスタント同盟とが激しく戦ったドイツ領邦間の宗教戦争でもあった。 三十年戦争の始まりはライネにとって微妙な状況をもたらすものであった。この街はミュンスター司教都市として公的にはカトリックのミュンスター領主司教の下にあったが、街自体にはプロテスタント思想が市民の間に深く根付いていた。1618年1月18日の戦争開始時、カトリックに忠実なライネ司祭シュメデスは司教領主宛の密書に、この街には代理司祭がおらず、教会の補助要員もいない。市長と8人の市議会議員のうちカトリック信者は1人だけだと書いている。 戦争勃発の何年も前からすでに、ライネはカトリックの司教領主の高権とプロテスタントを主流とする指導層が対決する緊張関係にあった。しかし、司教領主は市に対して実力行使し、司教領主に忠実なカトリックの都市指導者を送り込むほどの実力を有してはいなかった。 1623年に司教領が三十年戦争の本格的な危機的状況にさらされたときに状況は変化した。
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