前句付点者時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/22 23:30 UTC 版)
元禄3年(1690年)1月27日に前句付興行を開始、元禄6年(1693年)9月19日には月次発句興行を始め、以降間を開けず精力的に開催し、句集に纏めた。この時期には日本橋平松町南側(東京都中央区日本橋二丁目7番地付近)で書肆を営んでいる。不角の周りには主に地方出身の武家が集い、教養を織り込みながらも通俗的な句を趣向する独自の一派が形成された。 元禄末年、夢枕に柿本人麻呂が現れて橘姓の下一字を略すよう促され、立羽姓を名乗った。元禄16年(1703年)4月9日、先師不卜の十三回忌に当たり、髪が薄く髷を結えなくなったこともあり剃髪した。 大名など高位の武士との交流も繁くなった不角は、それに見合った肩書を嘱望するようになった。元禄16年(1703年)5月8日、備角の号で俳諧を嗜み交流があった備前岡山藩主池田綱政の参勤交代に伴い上京し、公家社会に顔が利いた綱政の後援により、7月23日遂に法橋の地位を賜った。道中の俳諧は『蠅帒』に纏められた。
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