初代 淀屋常安
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淀屋常安(よどやじょうあん、つねやす) 永禄3年(1560年)? - 元和8年7月28日(1622年9月3日) 二代言當の父である。長子(養子)喜入善右衛門は、常安町家、斉藤町家の家祖。次子(実子)常有五郎左衛門は、大川町家の家祖となった。 山城国岡本荘の武家の出身だったが、織田信長に討たれ商人を目指すようになった。苗字を出身地の岡本、通称を三郎右衛門、名を与三郎、のちに善右衛門とした。隠居し仏門に入ってからは常安の号を名乗った。なお前期淀屋の歴代当主も三郎右衛門を名乗った。 伏見城大手門の工事現場周辺に散在する巨石撤去を他の業者の1/10の価格で引き受け、掘った穴に滑り落として埋める、という周囲の意表を突く方法で解決した事を豊臣秀吉が目を付けた事が豪商となる第一歩であった。 常安請地として中之島の開拓を手掛け、大阪大学医学部跡地の旧町名である常安町、常安橋に名を残している。大坂三郷(北組・南組・天満組)のうち北組の惣年寄を担った。 大坂の陣においては徳川方を支持した。大坂冬の陣では茶臼山と岡山の陣屋を徳川家康と徳川秀忠に提供し、徳川方の兵には食料も提供した。その功績が家康に認められ、褒美として山城国八幡の山林田地300石の土地を与えられ、名字帯刀が許された。大坂夏の陣が終わった後には戦の後始末を願い出、亡くなった兵の供養と大量の武具を処分した事でも利益を得た。 墓所は大阪の大仙寺。
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