刀工・長曽祢興里について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/31 14:24 UTC 版)
「長曽祢虎徹 (近藤勇佩刀)」の記事における「刀工・長曽祢興里について」の解説
長曽祢興里は1605年(慶長10年)に越前国にある甲冑師の家に生まれたとされる。当初は甲冑師の家業を継いでいたが、50歳ごろとなった1656年(明暦2年)に江戸へ出て刀工へと転じた。当初は刀工銘を「長曽祢興里」としていたが、仏門に入ってからは「こてつ」と読める銘字も合わせて切るようになった。いちばん古い物は「古徹」と切り、その次は通称「はねとら」と呼ばれる「虎徹」、さらに1664年(寛文4年)8月頃より、通称「はことら」と呼ばれる「乕徹」へと変遷していく。 興里の刀工銘が頻繁に変化した理由としては、その存命中から切れ味抜群で人気が高かったことから、偽物が多く作られたことによる対応策と考えられている。虎徹の偽物が多いとする傍証として、昭和期を代表する刀剣学者である佐藤寒山は、自身の経験も合わせて「虎徹をみたらうそと思え」という収集家の戒めを紹介している。偽物が出回るほど切れ味は確かであったらしく、後世に山田浅右衛門が作刀の切れ味の良さをランク付けした『懐宝剣尺』には最上位にあたる「最上大業物」(さいじょうおおわざもの)に列せられるほどであり、山城国の名工である堀川国広と共に新刀の横綱と評されていた。
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