刀工・宇多国次について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/17 07:55 UTC 版)
越中で活躍した越中宇多派の刀工・宇多国次により作られたとされる脇差である。宇多派は大和国宇陀郡で活動していた古入道国光が越中に移住したことから端を発した刀工一派であり、国光が郷里を示すために「宇多」と銘を切ったことからその名がついたものとされる。古入道国光は五位庄三日市(現在の富山県高岡市福岡町三日市)に居を構え、後世の同派の刀工も越中を拠点に活躍していた。越中宇多派の作風は、応永年間以前に作られた古宇多物は小杢目肌に地沸(じにえ、平地の部分に鋼の粒子が銀砂をまいたように細かくきらきらと輝いて見えるもの)がついた上品な直刃(すぐは)である。 一方で応永年間以降の作刀は、鍛えが柾目交じりに粕立つ。刃文(はもん)は直刃のほか互の目交じりもあるが、焼き崩れ(刃文の一部が乱れ、刃文が崩れてはっきりしない状態)などあり下品である。また、棟焼き(刀身の棟側にも焼きを入ってしまうこと)が多いことも目障りとなると評される。宇多国次は同一銘を使った刀工が複数存在し、南北朝時代の延文年間に活躍した古入道国光の子とも弟ともいわれる国次から、安土桃山時代の天正年間に作刀していた国次まで多岐にわたる。なお、本作を作刀した「宇多国次」がどの国次であるかは判明していない。
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